冷やして食べる「くりーむパン」の大ヒットで、その社名が全国的に知られるようになった八天堂。同商品を世に送り出したのが、3代目社長の森光孝雅さんだ。パン職人としてスタートし、やがて会社経営者へ。家業の立て直し、多店舗展開を急いだゆえに招いた倒産危機、業態変更によるV字回復、さらなる経営のピンチを救った「一品専門」の誕生秘話まで、必ずしも順風満帆ではなかった道のりを振り返っていただいた。
「これで勝負する!」という武器と強烈な情熱を持つ
熱意をもって発信し、支援者や伴走者を増やす
危機に屈しない経営ノウハウを身に付ける
Q. まずは八天堂の歩みから教えてください。
森光:祖父が1933年に和菓子店「森光八天堂」を開業したのが始まりです。三原市にはまだ和菓子店が少ない時代で、スタートは順調だったと聞いています。ただ、戦後は材料が不足して、家でとれた野菜やお米を市場に運んで、わずかな小麦や砂糖を仕入れていたそうです。もちろんお客様にとっても甘いお菓子は希少。おまんじゅうを1個だけ買われたお客様が、再来店時に「家族で何等分にもして、うれし泣きしながら食べました」と話されたことなどを祖父から聞いて育ちました。幼心に「食でお客様の心を元気にできる素晴らしさ」を感じたことが、私の原点なのかもしれません。
Q. 早くから3代目を意識していましたか?
森光:それは全くないんですよ。実家は父の代で洋菓子も扱うようになりましたが、私自身は何の仕事に向いているのか分からないまま大学に入って、それを探すために飲食店やイベントのスタッフ、食品の製造ラインなどいろんなアルバイトを経験しました。中でも気になったのがやはり「食べるものを作ること」だったんです。勉強もあまり得意じゃないし、早く手に職をつけたい。そこで、大学を辞めて日本版マイスター制度を設けている神戸の「フロインドリーブ」に修行に入りました。パンと洋菓子を基礎から学んで、次第にパン職人を目指したいと思うようになったんです。

和洋菓子店の頃

神戸での修業時代
Q. パンのどんなところに魅力を感じましたか?
森光:パン作りには生き物である酵母が欠かせません。この酵母の扱い次第で、生地を触った時や窯から出した時のパンの状態が変化します。満足できる日もあれば、納得いかない日もある。毎日毎日、勝負している感じ。本当においしいものを作ることに情熱を注ぐというのが、理屈抜きで好きなんでしょうね。
Q. 修行を終えて帰郷し、念願の「たかちゃんのぱん屋」をオープンされました。
森光:初めからスムーズではなかったですね。当時、実家の近くで自分の店を構える予定でしたが、社長である父親は銀行への融資交渉に同行さえしてくれない。「もう親の世話にはならん!」と思って、懸命に事業計画を立てて提出しました。銀行側は何とか協力してくれたんですが、それも祖父の代から地元に根付き店舗を構えていたこと、実家が所有する土地の担保評価額が上がっていたおかげだと後々知りました。
Q. スタートから苦労されましたが、オープン後の手ごたえは?
森光:24時間営業のコンビニさえない時代だったので、朝から営業している焼き立てパンの店はあっという間に人気になりました。そこから広島県内に10年間で通算13店舗を出店しました。とにかく店を増やしたい、事業を大きくしたいという強烈な野心があったんです。この強い気持ちがどこから来るのか、もちろん性格もあると思いますが、振り返ると修業時代、先輩からとても厳しい指導を受けていたんです。「今にみとけよ」という反骨精神が養われたんだと思います。

たかちゃんのぱん屋
Q. ハイペースな店舗拡大で、影響はありませんでしたか?
森光:新店オープンが決まると、私が直接その店に出向いて店長を指導していました。そしてまた次の新店に行って指導です。パン作りという現場の真ん中で働く職人が、その延長でノウハウもなく経営を手がけていたんです。しかも店を増やし過ぎたことで、目が届く範囲がどんどん狭くなりました。品質や接客などの仕組みもしっかり確立できないままに、周りに競合店が増え、売り上げが減少し、社員は辞めていきました。倒産は目の前です。銀行からは民事再生法の書類を渡されました。
Q. そんな状態からのV字回復、きっかけは何でしたか?
森光:応援してくれた家族とお客様からの言葉でした。たまたま店頭に立った時に「ここに来るのを楽しみにしているから、がんばってね」と言ってもらって。聞いてみると、その方の家の近くには「天然酵母や無添加などにこだわったパンを売る店がない」と言うんです。視察に行くと、確かに最寄りスーパーには大手メーカーのパンしか並んでいません。そこで、すぐに「うちの焼き立てパンを置いてほしい」と売り込みました。話はとんとん拍子にまとまって、袋詰めパンの卸業がスタートしました。広島県内ほぼすべてのスーパーとも取引が決まり、3年でV字回復できました。
同時に私の意識も変わりました。店舗拡大ばかり考えていた時は、とにかく自分が優先で、うまくいかないことは周りのせいにしていました。でも、お客様から声をかけてもらったことを機に、責任は自分にあること、誰かの喜びが自分の喜びになることに気付けたんです。
Q. 卸業に移行後、経営は安定しましたか?
森光:2年くらいはうまくいきましたよ。ただ、競合のパン屋が同じことを始めたんです。三原市から県内各地にパンを運んでいた当社と違って、それぞれの地域に根差した焼き立てパンの店は、1日に何回もスーパーに商品を補充できます。次第に売り場の棚を減らされるようになりました。
Q. 次の一手を考えておられましたか?
森光:小売をやり切り、卸をやり切り、今までのやり方の限界を感じていました。そんな時に、中学時代の後輩でもある三原市の和菓子店「共楽堂」の代表・芝伐敏宏さんが、東京でブームの「一品専門」の情報を教えてくれました。彼自身も自社商品「ひとつぶのマスカット」が東京でヒットして、手ごたえを感じていたようです。「よし、一品にかけよう」と腹をくくってからは、業態転換のため命の恩人であるスーパーに頭を下げて回りました。すごく怒られて毎日大変でしたが、卸業を辞めなければ「一品」となる商品開発に専念できなかったんです。
Q. そこから「くりーむパン」が生まれるんですね。
森光:経済学者シュンペーターのイノベーション理論が目に留まって、自分なりの解釈でスタンダード×スタンダードを軸に商品を考え始めました。パンのスタンダードの1つ「クリームパン」と日本人が好きな「くちどけ」という食感を合わせた商品ができないだろうか?
ここで、父親が作っていたシュークリームを思い出したんです。シュークリームは焼いたシュー皮に後からクリームを注入します。また、パンの生地でくちどけ、しっとり感を出すために通常パン作りではあまり用いない薄力粉を使おうと考えました。それから、薄力粉の割合を増やして焼いた柔らかいパン生地に、くちどけの良いクリームを入れたんです。生クリームを使うので保存は冷蔵になりますが、薄力粉が多い生地は冷やしても固くならず、時間経過とともにクリームの水分が生地に移行して、しっとりとしたくちどけを生みました。開発に1年半かかりましたが、看板商品「くりーむパン」が誕生しました。
Q. 大ヒットの要因を振り返ると?
森光:場所は東京と決めていたので、初めは東十条商店街の一角からスタートし、間もなく品川駅の中央改札口で臨時売店を始めることができました。当時は、商品は毎日広島から空輸でした。でも、もっとも混み合う17時には売り切れてしまう。そこで、24時間態勢で製造して1日1便を3便に増やしましたが、狭い売り場はいつも行列でした。これがブランディングにつながったんです。広島から飛行機で運ばれていること、冷やして食べるパンという新しさ、メディアに取り上げられたことも大きかったと思います。

品川駅での販売の様子
Q. 今後の事業展開について教えてください。
森光:「くりーむパン」以外のスイーツパンをはじめ、手土産になるお菓子の開発を進めています。インバウンド向けの新商品も考案中で、製造拠点を増やすために工場の新設も計画しています。
それから、近年グループ会社が取り組んでいる「商工農福連携」事業にも力を入れていきたいですね。これは、人手が足りない農業者と働く場を求めている福祉事業所をマッチング(農福連携)し、さらにそのオーナーを募集する仕組み。当社はオーナーから受注する形で、収穫した果物などを使って商品を作り、専用サイトで販売します。新しいビジネスモデルとして注目されています。
Q. 時代の先を読んだ新たな挑戦ですね。
森光:一品専門にかけた「くりーむパン」がヒットした時も、私は全く喜べなかったんです。それまでの経験から、今うまくいってもまたいつ駄目になるか分からないと考えてしまう。常に危機感の塊なんですよ。だからこそいつも厳しい状況を想定して、先のことを考えながら会社を経営していかなければと思うんです。
経営危機にも陥って、それ以降もコロナ禍による売り上げダウンや鳥インフルの影響など、いろんなピンチがありました。でも周りに助けられながら、何とか乗り越えてきました。「逆境こそチャンス」が当社のDNAだと思っています。
●八天堂ビレッジ(2016年オープン)
広島空港そばにある体験型の食のテーマパーク。人気の「くりーむパン」の販売はもちろん、カフェでの食事やパン作り体験、VR工場見学に、子どもの遊び場まであります。子どもから大人まで楽しめる施設です。
Q. 大先輩として、創業を考えている方にアドバイスを。
森光:商品も技術もないのに、ただ漠然と創業したいと考える方はいませんよね。それぞれが「これで勝負したい」という武器を持っているはず。その武器プラス「強烈な情熱」が必要です。自分の商品や技術を、熱意をもってしっかり発信する。そこに価値や可能性があれば、投資家が後押ししてくれる世の中になりましたし、金融機関の出資も増えています。もちろん1回ですんなり認められるケースは少ないかもしれませんが、くじけては駄目です。100回断られても足を運ぶたくましさが大事です。
1人の力では手に負えないこともきっと出てきます。そんな時に応援してくれる人、伴走してくれる人を増やすためにも、やはり情熱と発信力がカギだと思います。